Side:佐久間 1



 普通に暮らしていれば、きっと道などまじわう事などない人だった。先輩を介して催された食事会で俺はひっそりとそう思った。
「こんばんは」
 ふっと笑うと目尻に皺が寄る。しかしなぜかどこと無く胡散臭い。流石は自衛隊のちょっと言えないところに所属しているというだけあるというか、何とも得体の知れない男だというのが第一印象だ。
 あの日には接触という接触は殆どなくて、ただ画面越しの存在でしかなかった。そんな人が俺たちの為に各方面に手を回し、恙無い日常を取り戻せるように全力を尽くしてくれたのだと聞けば礼の一つも述べない訳にはいかない。とは言え、高校生の身分では礼を述べる方法だなんて口頭位しかない。そんなこんなで催されたのがその食事会だった。
「佐久間くん、嫌いなものは?」
「いえ、特には」
 先輩といい雰囲気の健二に一応は気を遣い、四人掛けの席に俺は彼の隣に座った。同じソファータイプの椅子に腰掛けているはずなのに、こうも目線が違うと最早悔しさなど沸き立ってこない。まぁ自衛隊所属という時点で、草食系男子を地で行く俺とは比べるまでもないけれど。
「はい、どうぞ」
「あ・・・」
 遠くにあった胡椒の瓶をその長い腕ですっと取ってこちらに渡してくれる。別に取れなくて手をばたつかせて居たわけでもない。俺のどうしようかと戸惑う視線だけで気付いてくれた。
(こりゃモテるよなぁ・・・)
 旧家の長男、高給取り、身長も高くて顔も良ければ仕事態度も真面目そのもの。歳は四十一だが、独身貴族だからか全く歳は感じられないその上こんなに旨い飯屋も知っている。まさに完璧な大人の男といったかんじ。
(俺はこうはなれないよなぁ)
 きっと向こうから見たら俺なんてただの餓鬼なんだろうな。そう思えば少しだけ初対面の緊張も解れる気がした。最初はどう対応していけば良いのか足踏みしていた俺も段々と普段の調子を取り戻して会話を楽しめるようになっていった。楽しむ、といってもこれまた彼の気遣いがあったからだろう。俺の興味を引くような話題をとっかえひっかえ、次々と上らせて来てくれる。
「理一さんは・・・」
「え」
 だからつい、そうついとしか言いようがない。話の合う人に対して気が緩んでしまったのかもしれない。初対面の人に突然名前呼びだなんて。
「あ、ごめんなさい。俺・・・」
「いや、いいよ。その呼び方で」
 陣内さんだなんて親族の誰のことか分からないだろう。そう微笑まれて、俺は最初に抱いた警戒心がどっかに飛んでいくのを感じた。

「佐久間、そんなに急いでどこ行くの?」
「理一さんの家ー」
「家!?」
「そう、家」
 健二が発した驚愕の声を背に受ながら俺はさくさくと部室に散乱した身の回りの物を通学バックに押し込んでいく。
「いつの間に連絡取ってたんだよ」
「んー、結構マメにー。つっても理一さん、仕事柄連絡途絶えがちだけど」
 最初はそれにいちいち心配していたが、最近は慣れてきた。どうやら携帯もチェック出来ないほどに忙しくなってしまう身の上らしい。大人は大人で大変なのだ。
「・・・へー」
「・・・なんだよ」
 意味深な健二の視線に思わず振り向くと、奴の目はにやにやと笑っていた。うっわぁ、なんだか嫌な予感。
「珍しい」
「・・・何が?」
 健二はぎっと回転式の椅子をしならせてこちらの方に向き直る。
「佐久間が人にそこまで入れ込むの」
 お前基本来るもの拒まず、去るもの追わずじゃんかと言われて俺は返す言葉をとっさに見失った。
 確かにそうだ。最近の俺はおかしい。気付くと理一さんの事ばかり考えている。昨日交わしたメールの話題とか、この間喋った時の電話越しの声とか。無意識のうちに理一さんを追いかけている。
「・・・だってさぁ、あんなスペック見せつけられたらあらがえねぇよ」
「スペック?」
「それがさぁ、理一さんの家・・・」
 まるで自分に言い訳をしているようだ。健二の意識を違う方向に反らしながら遠くで思う。きっと俺は自分が思っている以上に、あの人に嵌っている。

「ひろっ!物すくなっ!」
 テンションが上がってしまうのは仕方がない。その日の放課後、訪れたのは理一さんの住むマンション。一人暮らしにしては贅沢過ぎるファミリータイプのマンション。立地条件も良く、大人のステータスというものを高校生の俺でも感じることが出来る。中はシンプルで余計な物は一つもない。有るとすれば空間を調和している観葉植物くらいだ。余計なものは一つもないとはいえ、その余計ではないもの一つ一つが金が掛かっている事になど直ぐに気がついた。
(普通、一人暮らしでダイニングセットと47インチの液晶テレビってありかよ・・・)
 思ったままの感想を述べれば理一さんは後方で小さく苦笑した。そのままテーブル方向に視線を向ければ本日最大のお目当てが飛び込んでくる。
「おぉ!現物!初めて見る!」
 後ろをばっと振り向いて理一さんの顔を見ると、くすくすっと笑って頷いてくれた。餓鬼丸だしの反応だったかなと思いつつも興奮が止められなかったので仕方がない。俺はそのままテーブルに置かれたお目当てにかぶりついた。
 どのくらいそうしていたのだろうか。取り合えず心行くまでマシンを触り、理一さんが煎れてくれたコーヒーを飲みながら他愛のない話をしていれば日はとっぷりと暮れてしまった。気付けばお腹の虫も鳴り始めるような時間帯。
「佐久間くん、お腹空かない?」
 実にタイミングの良い言葉に俺は思わず目を瞬かせた。
「・・・えーと。理一さん、料理とかするんですか?」
 純粋なる疑問。この人がキッチンにいちいち立つ所なんで想像しがたいし、その上さっき垣間見たキッチンは調理器具なんかは一式揃っているもののあまり使われていないような印象だった。
 そして俺の印象はばっちり当たる。食べ物を腐らせたくないからという忙しい大人ならではの理由であまりこの部屋で料理はしないのだという。ならば今の冷蔵庫には食材なんて望めないだろう。外食にはなるべく行きたくなかった。結局理一さんが奢ってくれることになってしまう事が分かっていたから。
 奢ってもらうことは決して嫌いではない。ただ、理一さんから奢ってもらう事にはなぜだか萎縮してしまうし、何よりも理一さんを遠くに感じてしまう。俺なんかとは全く別世界を居きる人なのだと実感してしまうことが、なぜか嫌だった。
 だから思わず口をついて出た、としか言いようがない。
「次の時には、食べたいもの、メールで送っといてください。俺、作りますから」
 出しゃばった。言った瞬間にそう思った。だから笑って誤魔化そうと思った。次なんていつになるか分からないのに。そもそも次があるなんて誰が言ったのだろう。図々しいにも程が有るではないか。
 しかしここで俺の予測に反する事が起こる。
 笑ったのだ。理一さんが、至極嬉しそうに。
「じゃあお願いするよ」
 暗に結ばれた次回の約束。俺の鼓動が一つ跳ね上がる。

(・・・ほんとにきた)
 物理部の部室で突然鳴ったバイブ音。画面を確認すれば見慣れてきた緑のアザラシアバターが運んできた新着のメールが一通。緊張が跳ね上がる。恐る恐る中を開けば、彼の自宅への誘いとメニューのリクエスト。
 一番最初の課題は和食。
(和食・・・)
 ざっと俺の頭の中をメニューが駆け抜けていく。何が好きだろう。何だと喜んでくれるだろう。作ることの出来るメニューからバランス良くチョイスをして、俺は椅子から立ち上がった。
「わり、俺帰る」
「んー」
 幸いにもパソコンの画面に夢中な親友は何も突っ込むことなく手をひらひらと降って見送ってくれた。
 向かう途中にあるスーパーであれこれ食材を買い込み、オートロックの前に立てばさも当然と言わんばかりにロックは解除された。やたら広いエントランスを突き抜けて、やっと玄関までたどり着く。
「・・・随分な大荷物だね」
「あの冷蔵庫、酒しか入ってないだろうって思ったんで」
 野菜から調味料までどっさりと両手に抱えた荷物を俺からひょいっと横取りすると、理一さんは俺をキッチンにまで案内してくれた。
「ここにあるものは自由に使って」
「はーい」
 制服の上からエプロンをつける。丁度今日家庭科の実習があったから良かった。
「・・・なんですか、理一さん」
 俺の事をじっと見る理一さんに小首を傾げれば、彼は珍しくはっとしたようにして次の瞬間苦笑した。
「いや、何でもないよ」
「そうですか。じゃ、出来るまで座って待っていて下さい」
 ほらほらとキッチンから追い出して、俺は作業を開始する。
 食べやすいように野菜を切り、肉の臭みを消す。魚は鱗を剥がし、テンポよく裁く。下準備が終わった所で俺は鍋がどこにも見あたらないことに気付く。
(ここ・・・?違う・・・ここか?)
 追い出した手前、理一さんに聞くことははばかられた。きょろきょろと探していると、上の釣り棚に入っているところまでは見つけられた。しかしそれが難題だった。
(と、届かない!!)
 長身の理一さんに併せて誂えたというキッチンは何もかもが俺にとって位置が高い。その中でも釣り棚は手が届きそうで届かないという、一番もどかしい位置にある収納場所だった。
(あと、すこ・・・し)
 ぐぐぐっと背伸びをしてプラスチックの取っ手の部分にほんの少し触れた。しかしこれ以上は限界だ。これから掴んで中の物を取り出すという動作には到底だが結び付かない。そう悟った瞬間。
「え・・・」
 後ろからひょいっと腕が伸びた。
「あまり無理すると危ないよ」
「あ・・・」
 驚き、はっと見上げた横顔に俺は息を飲んだ。今までになく、距離が近い。
「はい」
 あまりに呆気なく俺に鍋が渡された。
「・・・あ」
「取れない物があったら呼びなさい」
 柔らかく微笑まれて俺はようやく息する事を思い出す。
「あ、ありがとうございます」
 それからの俺はほんの少しだけ身体に触れた理一さんの体温を忘れる事に精一杯だった。
 飲み物を取りに来ただけの理一さんに真っ赤になったであろう顔を見られなかった事だけがせめてもの救い。ちなみに救いその二を上げるなら、その日の初めてのメニューは何とか失敗しなかった事ぐらいだろう。後はまともに理一さんの顔を見られなかったような気がする。
(どーしちゃったんだよ、俺!)
 相手は年上の、しかも男だというのに。これではまるで、そこまで考えて俺はいつでも首を振った。
 そんな馬鹿な話あるわけがない。
 それからそんな馬鹿な話だと気が付いたのは、もっと後になってからだった。
 その日の俺は少し疲れていた。だからいつもなら他人の家でありえないのだが、理一さんの家でうっかり眠りに落ち掛けた。完全に、ではないのだが意識を保つことは難しく、こてんとソファーの背面に凭れてゆらゆらと微睡みに身体を任せていた。
 そんな俺を、包み込むようにして現れた香り。
(・・・きもち、いい)
 目覚めようだなんて欠片も思わなかった。理一さんからいつもふわりと香る、心地の良い香りに包まれることは不快ではなかった。次いで訪れた温もりに俺の意識は更に混濁する。あの腕に抱き込まれているような錯覚。きっと前の接触が意識の微睡みでデジャブを起こしているのだろう。俺の肌に触れているのはただのソファーだから、そんなこと有るわけがない。
(もっと・・・)
 もっと、ずっとこのままでいられたら。これが夢なんかじゃなければどんなに良いだろう。これが本当に理一さんの腕だったらどんなに幸せだろう。そこまで考えて、眠りの淵に落ちながらもようやく俺は悟った。
 恋に落ちてしまったかもしれない、と。



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